【要約】Raven, M. 2015 "Ground." Philospophy Compass
基礎づけ概念は二つのアプローチから同時に要請される。一つは様々な「なんのおかげで」という形式の疑問の共通点として、もう一つはある現象が他のより基礎的な現象から構築されるのはどのようにしてかということを説明するための「構築関係」としてだ。
2. 基礎づけにおける合流
いろいろな「おかげで」がかかわる例
「芸術作品の美的価値はそれが制作されもしくは受容される際の文脈に依存しているのか?」
「権威や権力は同意から生まれるのか、それとも強制から生まれるのだろうか?」
「ある人の人格はその心理的状態から構成されているのだろうか?」
「現象的なものは物理的なものによって説明されるのだろうか?」
「知識とは正当化された真なる信念(ゲティアケースを除く)に他ならないのだろうか? 」
「因果性はヒューム的モザイクによって決定されるのだろうか?」
「一般化された概念はその実例のおかげで成り立つのだろうか?」
「集団とその活動はその成員の特徴や活動から構成されたものにすぎないのだろうか?」
「おかげで」の形式の疑問と形而上学的な世界の説明との交差点としては、歴史の中に例がある。
「敬虔だから神に愛されるのか、神に愛されるから敬虔なのか?」
3. 基礎づけを表現する
演算子によるアプローチは基礎づけられる文と基礎づけられる文を結ぶ演算子という形で基礎づけを表現する。
いっぽう関係的アプローチは基礎づけられる項と基礎づける項を関係によって結ぶ。
演算子アプローチでは、基礎づけ演算子は単一の文を複数の文に結びつけることが慣習的である。Fine(2012)に従うと、Φを単一の文、Γを文の集合とすると、Φ>Γは「ΓがΦを完全に基礎づける(ΓだからΦ)」と読める。完全な基礎づけによって部分的な基礎付けを定義することもできる。
演算子アプローチの一番の利点は関係アプローチに即座に付随する論争的な点―基礎づけが関係だとしたら、その関係項は何になるのかという問題―を先延ばしできる点にある。
純粋な基礎づけの論理は、それが結ぶものの中の内的な特徴にはかかわらないが、純粋でない基礎づけの論理はさらに文の論理形式などの内的な特徴にも関わる。この話題は自己言及のパラドクスと似たパズルとの関連で問題になる。
構築的なプロジェクトとの関連が注目されると、基礎づけを関係としてとらえるのがふさわしく感じられてくる。
4. 基礎づけのモデル
基礎づけがどのように表現されるにせよ、それが与えてくれる特徴的な形而上学的説明の本質はどのようなものになるのだろうか?我々にとってなじみ深い「モデルによって基礎づけによる説明を解明する」という戦略は、それが頼るモデルに起因する制約が存在する。
基礎づけと類似していないものの中で重要なのは因果的説明だろう。力の伝達、統計的に意味のある関係、非対称な反事実依存関係ですら基礎づけに必要ではない。
非因果的説明、たとえば様相的(付随的)説明については、基礎づけ関係の超内包性を表現できない。数学的説明は非因果的でありかつ超内包的でもあるが、数学的説明が関与しない基礎づけや基礎づけが関与しない数学的説明が存在する。
そもそも、排他的にアプリオリもしくはアポステリオリのどちらかである説明の種類は基礎づけの基盤として疑わしい。まとめると、なじみ深い説明の種別は基礎づけの限界事例を知ることには役立つかもしれないが、それと同一視することはできない。
5. 形而上学を説明に接続する
基礎づけはどのように形而上学を説明に結び付けるのだろうか?形而上学は物事それ自体にかかわるが、説明は我々の関心や目的との関係において物事をとらえる。
分離主義者は形而上学的説明は基礎づけそのものではないと考える。因果的説明が因果関係に裏打ちされているのと同様に、形而上学的説明は基礎づけに裏打ちされている。
統合主義者は因果的説明は基礎づけであると考える。統合主義者はいくつかの形而上学的説明は単に何が何を基礎づけるのかということに尽きると主張する。必ずしもすべての形而上学的説明が基礎づけでなければならないわけではないので、不都合な関心や目的の要素には基礎づけは答えなくてよい。こう考えると、分離主義者はなぜ素直に基礎づけと説明を同一視できるケースでそうしないのかということを説明しなければならない。
6. 演算子を超えて
分離主義者と統合主義者の間の対立は深刻であるものの、両社はどちらも基礎づけを関係とみなす理由があるように思われる。
分離主義者と統合主義者の論争に関して中立でいることは議論の間の相互関係を探求することを妨げるだろうから、ここでは統合主義者の立場をとる。
6.1 事実
現在立っている立場では、基礎づけは形而上学的説明の関係である。基礎づけ関係は説明的であるので、その関係項は説明したりされたりすることのできるような存在でなくてはならない。
出来事は具体的すぎることから不適格である。連言がその連言節に説明されることは出来事を用いてどのように表現できるのだろうか。
物体は説明の項には適さない。ダイヤモンドそれ自体はその硬さを説明しないし、ダイヤモンドそれ自体が高温高圧下の炭素によって説明されることもない。
ここで事実は真なる表象が表象する現実の状態であるとする。このように理解された事実は構造や材料を持つ。事実は具体的である必要はなく、かつ説明したりされたりできるので候補として生き残ることができる。
6.2 説明的な論理
基礎づけの説明的側面は特定の条件を満たす論理を課す。1.非反射性、何物も自分自身を基礎づけない。2.非対称性、基礎づけにおいても循環は許されない。3.推移性(カット規則)、基礎づけは連鎖する。4.根拠十分性、説明に始まりがなければならないのならば、すべての基礎づけられた事実は究極的には基礎づけられていない事実に基礎づけられなければならない。5.非単調性、基礎づけは基礎の追加に対して保存されない。
1-3は基礎づけの形式が事実の半順序を形成すること、4はその順序が最小の要素で終わることを帰結する。
基礎づけが問題になる理由、つまりそれが帰結とも、付随とも同一性や還元とも真にすることとも異なるということは、論理に目を向けることではっきりする。帰結は反射的であり、付随は非対称ではない。同一性は反射的で対称的である。真にすることは連鎖を形成しない。
これら基礎づけの論理に対しては様々な異論が存在する。
6.3 形而上学的な性格
基礎づけの形而上学的な側面は一定の条件を満たす形而上学的な性格を要求する。1.必然性、基礎が成り立つことはそれが基礎づけるものを必然化する。2.内性、必然的に、基礎と基礎づけられるものが両方得られたならば、基礎は基礎づけられるものを基礎づける。3.本質性、基礎づけが成り立つのなら、それは項の本質のおかげである。
存在の本質的な特徴は必然的であり内的である、といった一定の仮定の下ではこれらの性格はセットになる。
これらの特徴に関しても議論が存在する。
7. メタ基礎づけ
ここで基礎づけの事実を何が何を基礎づけるのかに関する事実であるとする。
戦争>行動
「1940年にヨーロッパ人がいろいろなことをしたことが1940年にヨーロッパで戦争があることを基礎づける」
この種の事実に関しても、何が基礎づけの事実を基礎づけるのかというメタ疑問を発することができる。しかし、このメタ疑問はジレンマを発生させる。
最初の角は基礎づけの事実は基礎を持たないと答える。が、これは基礎づけの理想的な適用、つまりそれ自身について以外の事実によって基礎づけられた事実を基盤的な現実から追放する、というプロジェクトと摩擦を起こす。戦争が基盤的な現実でないためには、戦争についてのすべての事実が戦争についてではない事実によって基礎づけられることが必要になる。そして、それらの基礎づけの事実はそれ自体戦争についてのものであり、戦争についての関係項を持つ。このとき、基礎づけの事実は追放されるべきだろうが、それらは基礎づけられていないので追放できない。
二番目の角は基礎づけの事実が基礎づけられることを認める。問題はそれが無限後退を引き起こすかどうかである。基礎づけの事実が基礎づけられるのなら、基礎づけの事実が基礎づけられるという高階の基礎づけの事実は何に基礎づけられるのか。
二つのメジャーな戦略はどちらも二つ目の角をとる、つまり基礎づけの事実は基礎を持つ。二つが異なるのはその基礎が何であるかについてだ。
還元主義者は基礎づけの事実の基礎は基礎づけの事実に埋め込まれた基礎に還元されると論じる。ここでは戦争>行動は行動に基礎づけられる。
還元主義の難点は基礎づけの提供する説明の一般的な構図をあいまいにすることにある。「1917年にヨーロッパ人がいろいろなことをしたことが1917年にヨーロッパで戦争があることを基礎づける」という基礎づけの事実は前述の基礎づけの事実と共通した戦争と行動の間の説明的な結びつきをもつ。しかし還元主義はこの共通性を説明できない。
接続主義はそのような説明的な結びつきが基礎づけの事実を基礎づける役に立つと主張する。そのような説明的な結びつきは本質と基礎の間の結びつきから生じる。例えば
接続的な事実
「戦争の本質の中に以下のようなことが含まれる。もし行動ならば戦争である。」
このような接続的な事実は戦争>行動を基礎づける役に立つ。いろいろな行動がこの結びつきと一緒になることでそれらが戦争を基礎づけることを基礎づける。
接続的な事実の難点は、最初の角をとった際の問題が再び現れることだ。もし接続的な事実が基礎づけられないのならば、戦争は基盤的な現実から排除されない。ここで、接続的な事実が基礎づけられると述べようとするかもしれないが、悪質な後退を避けつつそれを基礎づけるのが何かについてははっきりしない。別の返答は接続的な事実を基礎を持たずそれを必要ともしない例外として扱う。もしくは無によって基礎づけられると考える。もちろん、これは例外的な接続的な事実と他のものの区別はよくないという反論を招く。
還元主義と接続主義はまだ網羅的に探求されているわけでも、もう片方の戦略をまじめに考慮しているわけでもない。
8. 懐疑的な挑戦
まだまだたくさんの話題が基礎づけにはある。基礎づけは哲学的疑問を形式化する際に重要な役割を果たし、ある研究者にとっての形而上学の中心問題を特徴づける助けになる。だが、使い慣れたモデルを避けることや「おかげで」形式に対してはっきりと意見を述べないスタイルなどから、基礎づけが形而上学と説明の間の大それたつながりを担うには不安定であるとみなされうる。こう考えると、基礎づけはホフウェバー(2009)が秘儀的な形而上学と呼ぶような、答えようとする問を理解するために形而上学的な用語を理解する必要のある形而上学の一種であるように見えてくる。
外部の懐疑主義者は基礎づけが秘儀的であることを理由に基礎づけを拒絶する。が、それが受け入れられないほど秘儀的であるかどうかについても争いが存在する。
内部の懐疑主義者は秘儀的な形而上学がそれ自体問題であるとは考えないが、基礎づけ概念の意義を疑問視する。基礎づけは様々なきめの細かい依存関係のごった煮である、と主張したり、それらの依存関係が分離した後には基礎づけのための仕事は残っていない、と主張したりする。
しかし、この内部の懐疑を基礎づけの研究をやめる理由にする代わりに、基礎づけ概念と周辺概念を解きほぐすことを新たな目標にするという手もある。この作業は基礎づけがどのような特徴を備えているのか考慮することによって進められる。この場合、基礎づけに対する関心はどのようにその説明的/形而上学的特徴が基礎づけに特徴的な仕事内容に貢献するのかという疑問を強調することでより強化されうる。
さらに、この仕事内容は新しく有意義な基礎づけの適用を探求することで支持されうる。たとえば、ある存在が現実の究極的な説明から省くことができる、ということの特徴づけは、基礎づけを用いて定義できる。消去不可能な存在がほかの存在に依存するということはありうるため、これは基礎づけに特徴的な仕事である。さらに、依存関係が無限に続くような状況でも適用可能である。
Raven, Michael J. (2015). Ground. Philosophy Compass 10 (5):322-333.