世界線終点

形而上学や行為に関する(主に哲学的な)文献の読書ログ

【要約】Wilson, J. (2009). Resemblance-Based Resources for Reductive Singularism

0. 導入

ヒュームの議論が今日でも影響力が高いとされるのは、二つの、伝統的にヒュームに結び付けられるテーゼが広く受け入れられているからだ。一つは、原因の効力が現実の還元不可能な特徴であることを否定する経験主義の立場、もう一つは、因果的還元主義が因果的総称主義を要求するという考え方だ。因果的総称主義は出来事間の因果関係は、少なくとも部分的には、出来事の配置から成るとする。

ここで私は二番目の、因果的還元主義が因果的総称主義を要求する、といういうテーゼは正しくないと論じる。因果的還元主義は因果的単称主義―出来事間の因果関係は局所的に決定されるという立場―と誤って対置されてきた。

この論文は還元主義的な単称主義の立場を探求する。その最大の理由は認識論的なものである。多くの場合、我々は全域的なな出来事の配置を知らず、知ることは現実的ではない。また、そのような規則性を満たすようなサンプルを欠いた状態でも、我々は因果関係を同定することができる。

還元主義的な単称主義では二つのアプローチが主流である。まず、因果性とは局所的な変化という出来事であるという立場。デュカス(1926)は原因を結果に先立ち近接した変化全体であるとする。もう一つは因果性を様々な物理量の伝達であるとする立場。しかし、変化を中心に据えた理論と伝達理論はどちらも原因の個別化にあたってきめの細かい診断を下すことに失敗している。バスケットボールが窓にあたり、窓が割れる。しかしボールと同時に遠く離れた星からの光が窓にあたっていたらどうだろうか?

還元主義者の立場にとどまりながらこれに対処する方法がある。類似性だ。この論文で私が探求するのは、因果性は形而上学的、認識論的に「類似性を得ること」とする立場だ。

まず1節で「類似性を得ること」がヒュームの経験主義の枠組みの中で利用可能であることを述べ、その経験が単称的な因果の信念を十分に正当化することを論じる。2節では認識論、経験論の梯子を蹴飛ばし、形而上学的な因果を論じる。3節では類似性を得ることが還元主義的な単称主義に利用可能な資源であることを論じる。4節では還元的単称主義の一般的な優位性を論じる。

 

1. ヒュームの類似性を基盤とした単称主義の治療

1.1 ヒュームの経験主義の要素

ヒュームの観念論的な用語では、すべての観念は単純な―感覚もしくは内省に由来する―観念もしくは複雑な―類似性、時空間的な近接性、原因と結果からなる「連想の原理」に従って単純な観念から構成された―観念のどちらかである。

彼は因果性の観念を与えてくれるような局所的な、もしくは単称の経験はないと論じる。

1.2 ヒュームによる単称因果に反対する議論

ヒュームは局所的な、もしくは単称の経験に基づく因果的信念、つまり単称因果の信念を攻撃した。初めに彼は因果的信念が因果の関係項の片方が持つ単項的な性質によって説明できるかどうかを検討し、すべての原因が共通して持つそのような性質は存在しないとする。また、彼は対象の間の関係によって単称因果的な信念が正当化されるかを考える。時空間的近接性はそのような関係の候補であるが、十分ではない。ここから彼は、単称的な因果信念を正当化するような対象が持つ性質も、対象間の関係も存在しないと考えた。

ヒュームは次に、単称的な因果信念がある種の推論によって正当化される可能性を考える。まず、もしアプリオリな推論によって単称的な因果信念が得られるならば、我々はその否定を想像することができないはずだ、よってそのような推論は存在しない、と彼は論じる。また、彼の厳格な経験論においては、単称的な因果信念は最善の説明への推論によって隠れた力や原因のエネルギーのようなものを導入することは許されない。

以上を始めとする議論を通じて、ヒュームは正当化された単称的な因果信念は存在しないと結論付ける。

1.3 無視された選択肢:類似性を基盤とした因果

ヒュームの枠組みの中では、互いに類似性を持つ物体や出来事が関与する複雑な経験によって信念が正当化されることがありうる。ヒュームは単項的な性質や時空間的な関係が単独で還元の基盤にならないという点において正しかったが、類似性を考慮しなかった。

ヒュームが時間と空間に対して与えたモデルは選択肢を提示してくれる。ヒュームの用語に従えば、空間と時間の観念は時間的に連なった、もしくは空間的に配置された観念や印象の経験から生まれる。ここで私は、単称的な因果信念もまた複数の出来事の存在の仕方を反映した経験によって正当化されると論じる。

1.4 類似性を生み出す原因

以下のような一連の出来事を考えてみよう。

クッキー-型過程

1. クッキー生地を広げ、星型のクッキー型を手に取る。t1において、クッキー生地と型は接触していないことが確認される。また、型とクッキー生地の間には星型の部分を持っているという点における類似性が存在しない。

2. t1より後のt2において、クッキー型がクッキー生地に押し付けられ、クッキー生地と型が接触していることが確認される。

3. t2より後のt3において、クッキー型が持ち上げられ、クッキー生地と型が接触しなくなり、クッキー生地と型は星型の部分を持つという点において類似している。 

1-3の個別の経験はヒュームの枠組みと両立可能であり、一緒になってEという経験を構成する。私はこの、「時空間的に連続的に類似性を得ること」を含む複合的な経験が単称的な因果関係を正当化すると考える。より具体的には、EはCを内容に持つ信念を正当化すると主張する。

C

型が生地と接触する星型の部分を持っていることが生地が星型の部分を持つことを引き起こした。

EがCを内容に持つ信念を正当化するのは、以下のような(ヒュームに触発された)十分条件を満たすときである。

合理的な判断

Sによってtに、もしくはtの間に得られた経験EがCという内容の信念を正当化するのは以下の場合である。Sが自身の経験を額面通りに信じられない理由がないのなら、Sは以降tに、もしくはtの間Cが成り立っていると判断することが合理的であり、tに、もしくはtの間Cが成り立っていないと判断すること、もしくはなんの意見も持たないことは不合理である。 

Eという経験がCを内容に持つ信念を正当化するにあたって、ヒュームの経験主義が禁じるタイプの存在や推論は一切含まれていない。

ヒュームの規範的な例であるビリヤードボールの例では、2つのボールは動きの点において類似性を得る。もちろん、類似性を得ることに基礎づけられない因果信念はありそうに思えるが、ここでの目的である、ヒュームによる「還元主義は総称主義を要求する」という議論を崩すだけの力はある。

また、類似性を得ることは因果性の指標として不可謬ではないように思われるが、時空間的な隣接に比べればいくぶんかましである。

 

2. 類似性を基盤とした因果

ここからは形而上学的な議論になる。

類似性を基盤とした因果

出来事cが出来事eを引き起こすのは次の場合であり、次の場合に限る。

1. cはeに時間的に先行しており、空間的に近接している。

2. cの構成要素であるe1は特徴Fを持つ。

3. cはe1とeの構成要素であるe2との空間的な接触を伴う。

4. 空間的接触に先立って、e2はe1にFという点で類似していない。

5. 空間的接触の後、e2はe1にFという点で類似している。

いくつか明確にしなければならないことがある。 

まず、ここでは類似性は性質の共有によって成り立つと仮定している。共有される性質はゲリマンダー的でないものである必要がある。唯名論者は望むように性質に関する語りを書き換えて良い。また、類似性を性質の共有として扱うことの是非については議論しない。「空間的接触の後」という限定詞は、接触の後にe1がFでなくなることを許容している。この場合、接触の前のe1と接触の後のe2の間の類似性を使う。

いくつかの物理的な出来事のケースは明らかに、また、心的因果が関わるケースも類似性を得ることが関わっている。パスタを作ろうとする意図とパスタを作ることは類似している。心的因果は空間的に仲介されているわけではないが、これは類似性を得ることそれ自体が因果性の基盤になることを示唆しているかもしれない。

類似性を作り出すような原因は一般的であるものの、すべての因果に類似性を得ることが関わっているとは考えにくい。そのようなケースも最終的には類似性を得ることが関わっていると考えられるかもしれないが、ここでは類似性を基盤とした因果は因果性の必要条件ではないと考える。

では、類似性を得ることは因果にとって十分だろうか?そうでないと考える3つの理由がある。まず、全てのものが他の全てのものに何らかの点において似ていることは哲学的には当たり前のことである。類似性はあまりにありふれすぎている。しかし、この反論は類似性を「得ること」とはかかわらないのでそれ自体としては問題ない。

次の反論も同様に類似性の柔軟性に関わる。グラスに高音で「砕けろ」と歌う事によってグラスを割る事を考える。出来事とその構成要素は様々なレベルで性質を共有する事ができるので、原因が多すぎるということになりかねない。これに対しては、類似性を得ることによる因果が要求する性質を制限することで対処できる。

最後に最も手強い反論が残っている。ヒュームのビリヤードボールに以下のような変更を加えてみよう。ボールAが停止しているボールBに向かって動いている。接触の瞬間、テーブルの機構が働きAを止め、Bが動くのを妨げる。同時に他の機構がBを開放し、BがAによって引き起こされたはずの動きと同じ動きをするように弾き飛ばす。私はこの反論を受けいれ、類似性を得ることは単称因果の還元的な基盤として十分ではないと考える。

 

3. 類似性を基盤とした還元的単称主義のための資源

 にもかかわらず、類似性を得ることは還元的単称主義を弁護するという重要な役割を果たしうる。類似性を得ることの要素を追加することで、変化を基盤とした理論と伝達理論はそれに向けられた反論を回避することができるようになる。

3.1 変化を基盤とした理論

デュカス(1924, 1926)は原因を結果の直前に隣接して起こった唯一の変化であると考えた。しかし、デュカスの理論の問題点は原因を適切にキメの細かい仕方で個別化できないことにある。これに対処するため、彼はトークンとしての因果とタイプとしての因果を区別する。

しかし、デュカスの対応は2つの意味で問題がある。まず、デュカスは2つの区別がどのように原因や結果の用例に適用されるのかを語らなかった。次に、この対応はデュカスの理論を単称主義ではなくしてしまう。タイプとしての因果は反事実条件文や類似したケースに言及する事が必要なためだ。

 

3.2 単称主義のための類似性を基盤にした資源

 類似性を得ることを導入することによって、デュカスの理論は変化全体の中から関連のある部分と関連のない部分を区別することができるようになる。結果となる変化が「存在e2がFになること」であるとき、類似性を基盤とした単称主義はその原因を「結果に先立ち、近接したFである構成要素e1を持つ変化」として特定できる。

この変更はこれ自体では類似性を得ることに対する上のビリヤードボールの例を乗り越えることはできない。しかし、「Fという点において結果と類似性を持つようになる構成部分が、Fという点で結果と類似するような唯一の構成要素でなければならない」、というように変更すれば回避することは可能である。

 

3.3 単称主義的伝達理論

 伝達理論もまた同様に原因の個別化の問題を抱えている。それに加えて、伝達理論は我々の日常的な巨視的なレベルの因果判断とエネルギーの受け渡しなどのミクロレベルの現象との乖離という問題を抱えている。

 

3.4 伝達理論のための類似性を基盤とした資源

 類似性の観点となるFによって原因と結果を個別化する。マクロな因果判断は類似性を得ることが対応し、ミクロなプロセスがそれを基礎づける。ここでは伝達理論に類似性の要素を足すだけでさらなる改訂の必要なしに十分な還元の基盤になっていると考える。

 

4. 還元的単称主義の一般的な正当化にまで持ち上げる

類似性+変化を基盤とした理論、類似性+伝達理論がそれぞれ因果性に十分であるとしても因果性に必要であるとは限らない。しかし、この一見したところの欠点は還元的単称主義を正当化するという目的に関しては関係しないと考える。還元主義が成功するためには必ずしもすべてのケースを説明できなくてはいけないわけではない。

 

Wilson, Jessica M. (2009). Resemblance-based resources for reductive singularism (or: How to be a Humean singularist about causation). The Monist 92 (1):153-190.

https://academic.oup.com/monist/article/92/1/153/1078446