世界線終点

形而上学や行為に関する(主に哲学的な)文献の読書ログ

【要約】Wilson, J. (2009). Resemblance-Based Resources for Reductive Singularism

0. 導入

ヒュームの議論が今日でも影響力が高いとされるのは、二つの、伝統的にヒュームに結び付けられるテーゼが広く受け入れられているからだ。一つは、原因の効力が現実の還元不可能な特徴であることを否定する経験主義の立場、もう一つは、因果的還元主義が因果的総称主義を要求するという考え方だ。因果的総称主義は出来事間の因果関係は、少なくとも部分的には、出来事の配置から成るとする。

ここで私は二番目の、因果的還元主義が因果的総称主義を要求する、といういうテーゼは正しくないと論じる。因果的還元主義は因果的単称主義―出来事間の因果関係は局所的に決定されるという立場―と誤って対置されてきた。

この論文は還元主義的な単称主義の立場を探求する。その最大の理由は認識論的なものである。多くの場合、我々は全域的なな出来事の配置を知らず、知ることは現実的ではない。また、そのような規則性を満たすようなサンプルを欠いた状態でも、我々は因果関係を同定することができる。

還元主義的な単称主義では二つのアプローチが主流である。まず、因果性とは局所的な変化という出来事であるという立場。デュカス(1926)は原因を結果に先立ち近接した変化全体であるとする。もう一つは因果性を様々な物理量の伝達であるとする立場。しかし、変化を中心に据えた理論と伝達理論はどちらも原因の個別化にあたってきめの細かい診断を下すことに失敗している。バスケットボールが窓にあたり、窓が割れる。しかしボールと同時に遠く離れた星からの光が窓にあたっていたらどうだろうか?

還元主義者の立場にとどまりながらこれに対処する方法がある。類似性だ。この論文で私が探求するのは、因果性は形而上学的、認識論的に「類似性を得ること」とする立場だ。

まず1節で「類似性を得ること」がヒュームの経験主義の枠組みの中で利用可能であることを述べ、その経験が単称的な因果の信念を十分に正当化することを論じる。2節では認識論、経験論の梯子を蹴飛ばし、形而上学的な因果を論じる。3節では類似性を得ることが還元主義的な単称主義に利用可能な資源であることを論じる。4節では還元的単称主義の一般的な優位性を論じる。

 

1. ヒュームの類似性を基盤とした単称主義の治療

1.1 ヒュームの経験主義の要素

ヒュームの観念論的な用語では、すべての観念は単純な―感覚もしくは内省に由来する―観念もしくは複雑な―類似性、時空間的な近接性、原因と結果からなる「連想の原理」に従って単純な観念から構成された―観念のどちらかである。

彼は因果性の観念を与えてくれるような局所的な、もしくは単称の経験はないと論じる。

1.2 ヒュームによる単称因果に反対する議論

ヒュームは局所的な、もしくは単称の経験に基づく因果的信念、つまり単称因果の信念を攻撃した。初めに彼は因果的信念が因果の関係項の片方が持つ単項的な性質によって説明できるかどうかを検討し、すべての原因が共通して持つそのような性質は存在しないとする。また、彼は対象の間の関係によって単称因果的な信念が正当化されるかを考える。時空間的近接性はそのような関係の候補であるが、十分ではない。ここから彼は、単称的な因果信念を正当化するような対象が持つ性質も、対象間の関係も存在しないと考えた。

ヒュームは次に、単称的な因果信念がある種の推論によって正当化される可能性を考える。まず、もしアプリオリな推論によって単称的な因果信念が得られるならば、我々はその否定を想像することができないはずだ、よってそのような推論は存在しない、と彼は論じる。また、彼の厳格な経験論においては、単称的な因果信念は最善の説明への推論によって隠れた力や原因のエネルギーのようなものを導入することは許されない。

以上を始めとする議論を通じて、ヒュームは正当化された単称的な因果信念は存在しないと結論付ける。

1.3 無視された選択肢:類似性を基盤とした因果

ヒュームの枠組みの中では、互いに類似性を持つ物体や出来事が関与する複雑な経験によって信念が正当化されることがありうる。ヒュームは単項的な性質や時空間的な関係が単独で還元の基盤にならないという点において正しかったが、類似性を考慮しなかった。

ヒュームが時間と空間に対して与えたモデルは選択肢を提示してくれる。ヒュームの用語に従えば、空間と時間の観念は時間的に連なった、もしくは空間的に配置された観念や印象の経験から生まれる。ここで私は、単称的な因果信念もまた複数の出来事の存在の仕方を反映した経験によって正当化されると論じる。

1.4 類似性を生み出す原因

以下のような一連の出来事を考えてみよう。

クッキー-型過程

1. クッキー生地を広げ、星型のクッキー型を手に取る。t1において、クッキー生地と型は接触していないことが確認される。また、型とクッキー生地の間には星型の部分を持っているという点における類似性が存在しない。

2. t1より後のt2において、クッキー型がクッキー生地に押し付けられ、クッキー生地と型が接触していることが確認される。

3. t2より後のt3において、クッキー型が持ち上げられ、クッキー生地と型が接触しなくなり、クッキー生地と型は星型の部分を持つという点において類似している。 

1-3の個別の経験はヒュームの枠組みと両立可能であり、一緒になってEという経験を構成する。私はこの、「時空間的に連続的に類似性を得ること」を含む複合的な経験が単称的な因果関係を正当化すると考える。より具体的には、EはCを内容に持つ信念を正当化すると主張する。

C

型が生地と接触する星型の部分を持っていることが生地が星型の部分を持つことを引き起こした。

EがCを内容に持つ信念を正当化するのは、以下のような(ヒュームに触発された)十分条件を満たすときである。

合理的な判断

Sによってtに、もしくはtの間に得られた経験EがCという内容の信念を正当化するのは以下の場合である。Sが自身の経験を額面通りに信じられない理由がないのなら、Sは以降tに、もしくはtの間Cが成り立っていると判断することが合理的であり、tに、もしくはtの間Cが成り立っていないと判断すること、もしくはなんの意見も持たないことは不合理である。 

Eという経験がCを内容に持つ信念を正当化するにあたって、ヒュームの経験主義が禁じるタイプの存在や推論は一切含まれていない。

ヒュームの規範的な例であるビリヤードボールの例では、2つのボールは動きの点において類似性を得る。もちろん、類似性を得ることに基礎づけられない因果信念はありそうに思えるが、ここでの目的である、ヒュームによる「還元主義は総称主義を要求する」という議論を崩すだけの力はある。

また、類似性を得ることは因果性の指標として不可謬ではないように思われるが、時空間的な隣接に比べればいくぶんかましである。

 

2. 類似性を基盤とした因果

ここからは形而上学的な議論になる。

類似性を基盤とした因果

出来事cが出来事eを引き起こすのは次の場合であり、次の場合に限る。

1. cはeに時間的に先行しており、空間的に近接している。

2. cの構成要素であるe1は特徴Fを持つ。

3. cはe1とeの構成要素であるe2との空間的な接触を伴う。

4. 空間的接触に先立って、e2はe1にFという点で類似していない。

5. 空間的接触の後、e2はe1にFという点で類似している。

いくつか明確にしなければならないことがある。 

まず、ここでは類似性は性質の共有によって成り立つと仮定している。共有される性質はゲリマンダー的でないものである必要がある。唯名論者は望むように性質に関する語りを書き換えて良い。また、類似性を性質の共有として扱うことの是非については議論しない。「空間的接触の後」という限定詞は、接触の後にe1がFでなくなることを許容している。この場合、接触の前のe1と接触の後のe2の間の類似性を使う。

いくつかの物理的な出来事のケースは明らかに、また、心的因果が関わるケースも類似性を得ることが関わっている。パスタを作ろうとする意図とパスタを作ることは類似している。心的因果は空間的に仲介されているわけではないが、これは類似性を得ることそれ自体が因果性の基盤になることを示唆しているかもしれない。

類似性を作り出すような原因は一般的であるものの、すべての因果に類似性を得ることが関わっているとは考えにくい。そのようなケースも最終的には類似性を得ることが関わっていると考えられるかもしれないが、ここでは類似性を基盤とした因果は因果性の必要条件ではないと考える。

では、類似性を得ることは因果にとって十分だろうか?そうでないと考える3つの理由がある。まず、全てのものが他の全てのものに何らかの点において似ていることは哲学的には当たり前のことである。類似性はあまりにありふれすぎている。しかし、この反論は類似性を「得ること」とはかかわらないのでそれ自体としては問題ない。

次の反論も同様に類似性の柔軟性に関わる。グラスに高音で「砕けろ」と歌う事によってグラスを割る事を考える。出来事とその構成要素は様々なレベルで性質を共有する事ができるので、原因が多すぎるということになりかねない。これに対しては、類似性を得ることによる因果が要求する性質を制限することで対処できる。

最後に最も手強い反論が残っている。ヒュームのビリヤードボールに以下のような変更を加えてみよう。ボールAが停止しているボールBに向かって動いている。接触の瞬間、テーブルの機構が働きAを止め、Bが動くのを妨げる。同時に他の機構がBを開放し、BがAによって引き起こされたはずの動きと同じ動きをするように弾き飛ばす。私はこの反論を受けいれ、類似性を得ることは単称因果の還元的な基盤として十分ではないと考える。

 

3. 類似性を基盤とした還元的単称主義のための資源

 にもかかわらず、類似性を得ることは還元的単称主義を弁護するという重要な役割を果たしうる。類似性を得ることの要素を追加することで、変化を基盤とした理論と伝達理論はそれに向けられた反論を回避することができるようになる。

3.1 変化を基盤とした理論

デュカス(1924, 1926)は原因を結果の直前に隣接して起こった唯一の変化であると考えた。しかし、デュカスの理論の問題点は原因を適切にキメの細かい仕方で個別化できないことにある。これに対処するため、彼はトークンとしての因果とタイプとしての因果を区別する。

しかし、デュカスの対応は2つの意味で問題がある。まず、デュカスは2つの区別がどのように原因や結果の用例に適用されるのかを語らなかった。次に、この対応はデュカスの理論を単称主義ではなくしてしまう。タイプとしての因果は反事実条件文や類似したケースに言及する事が必要なためだ。

 

3.2 単称主義のための類似性を基盤にした資源

 類似性を得ることを導入することによって、デュカスの理論は変化全体の中から関連のある部分と関連のない部分を区別することができるようになる。結果となる変化が「存在e2がFになること」であるとき、類似性を基盤とした単称主義はその原因を「結果に先立ち、近接したFである構成要素e1を持つ変化」として特定できる。

この変更はこれ自体では類似性を得ることに対する上のビリヤードボールの例を乗り越えることはできない。しかし、「Fという点において結果と類似性を持つようになる構成部分が、Fという点で結果と類似するような唯一の構成要素でなければならない」、というように変更すれば回避することは可能である。

 

3.3 単称主義的伝達理論

 伝達理論もまた同様に原因の個別化の問題を抱えている。それに加えて、伝達理論は我々の日常的な巨視的なレベルの因果判断とエネルギーの受け渡しなどのミクロレベルの現象との乖離という問題を抱えている。

 

3.4 伝達理論のための類似性を基盤とした資源

 類似性の観点となるFによって原因と結果を個別化する。マクロな因果判断は類似性を得ることが対応し、ミクロなプロセスがそれを基礎づける。ここでは伝達理論に類似性の要素を足すだけでさらなる改訂の必要なしに十分な還元の基盤になっていると考える。

 

4. 還元的単称主義の一般的な正当化にまで持ち上げる

類似性+変化を基盤とした理論、類似性+伝達理論がそれぞれ因果性に十分であるとしても因果性に必要であるとは限らない。しかし、この一見したところの欠点は還元的単称主義を正当化するという目的に関しては関係しないと考える。還元主義が成功するためには必ずしもすべてのケースを説明できなくてはいけないわけではない。

 

Wilson, Jessica M. (2009). Resemblance-based resources for reductive singularism (or: How to be a Humean singularist about causation). The Monist 92 (1):153-190.

https://academic.oup.com/monist/article/92/1/153/1078446

【要約】Raven, M. 2015 "Ground." Philospophy Compass

基礎づけ概念は二つのアプローチから同時に要請される。一つは様々な「なんのおかげで」という形式の疑問の共通点として、もう一つはある現象が他のより基礎的な現象から構築されるのはどのようにしてかということを説明するための「構築関係」としてだ。

 

2. 基礎づけにおける合流

いろいろな「おかげで」がかかわる例

「芸術作品の美的価値はそれが制作されもしくは受容される際の文脈に依存しているのか?」

「権威や権力は同意から生まれるのか、それとも強制から生まれるのだろうか?」

「ある人の人格はその心理的状態から構成されているのだろうか?」

「現象的なものは物理的なものによって説明されるのだろうか?」

「知識とは正当化された真なる信念(ゲティアケースを除く)に他ならないのだろうか? 」

「因果性はヒューム的モザイクによって決定されるのだろうか?」

「一般化された概念はその実例のおかげで成り立つのだろうか?」

「集団とその活動はその成員の特徴や活動から構成されたものにすぎないのだろうか?」

 

「おかげで」の形式の疑問と形而上学的な世界の説明との交差点としては、歴史の中に例がある。

「敬虔だから神に愛されるのか、神に愛されるから敬虔なのか?」

 

3. 基礎づけを表現する

演算子によるアプローチは基礎づけられる文と基礎づけられる文を結ぶ演算子という形で基礎づけを表現する。

いっぽう関係的アプローチは基礎づけられる項と基礎づける項を関係によって結ぶ。

演算子アプローチでは、基礎づけ演算子は単一の文を複数の文に結びつけることが慣習的である。Fine(2012)に従うと、Φを単一の文、Γを文の集合とすると、Φ>Γは「ΓがΦを完全に基礎づける(ΓだからΦ)」と読める。完全な基礎づけによって部分的な基礎付けを定義することもできる。

演算子アプローチの一番の利点は関係アプローチに即座に付随する論争的な点―基礎づけが関係だとしたら、その関係項は何になるのかという問題―を先延ばしできる点にある。

純粋な基礎づけの論理は、それが結ぶものの中の内的な特徴にはかかわらないが、純粋でない基礎づけの論理はさらに文の論理形式などの内的な特徴にも関わる。この話題は自己言及のパラドクスと似たパズルとの関連で問題になる。

構築的なプロジェクトとの関連が注目されると、基礎づけを関係としてとらえるのがふさわしく感じられてくる。

 

4. 基礎づけのモデル

 基礎づけがどのように表現されるにせよ、それが与えてくれる特徴的な形而上学的説明の本質はどのようなものになるのだろうか?我々にとってなじみ深い「モデルによって基礎づけによる説明を解明する」という戦略は、それが頼るモデルに起因する制約が存在する。

基礎づけと類似していないものの中で重要なのは因果的説明だろう。力の伝達、統計的に意味のある関係、非対称な反事実依存関係ですら基礎づけに必要ではない。

非因果的説明、たとえば様相的(付随的)説明については、基礎づけ関係の超内包性を表現できない。数学的説明は非因果的でありかつ超内包的でもあるが、数学的説明が関与しない基礎づけや基礎づけが関与しない数学的説明が存在する。

そもそも、排他的にアプリオリもしくはアポステリオリのどちらかである説明の種類は基礎づけの基盤として疑わしい。まとめると、なじみ深い説明の種別は基礎づけの限界事例を知ることには役立つかもしれないが、それと同一視することはできない。

 

5. 形而上学を説明に接続する

 基礎づけはどのように形而上学を説明に結び付けるのだろうか?形而上学は物事それ自体にかかわるが、説明は我々の関心や目的との関係において物事をとらえる。

分離主義者は形而上学的説明は基礎づけそのものではないと考える。因果的説明が因果関係に裏打ちされているのと同様に、形而上学的説明は基礎づけに裏打ちされている。

統合主義者は因果的説明は基礎づけであると考える。統合主義者はいくつかの形而上学的説明は単に何が何を基礎づけるのかということに尽きると主張する。必ずしもすべての形而上学的説明が基礎づけでなければならないわけではないので、不都合な関心や目的の要素には基礎づけは答えなくてよい。こう考えると、分離主義者はなぜ素直に基礎づけと説明を同一視できるケースでそうしないのかということを説明しなければならない。

 

6. 演算子を超えて

分離主義者と統合主義者の間の対立は深刻であるものの、両社はどちらも基礎づけを関係とみなす理由があるように思われる。

 分離主義者と統合主義者の論争に関して中立でいることは議論の間の相互関係を探求することを妨げるだろうから、ここでは統合主義者の立場をとる。

 

6.1 事実

現在立っている立場では、基礎づけは形而上学的説明の関係である。基礎づけ関係は説明的であるので、その関係項は説明したりされたりすることのできるような存在でなくてはならない。

出来事は具体的すぎることから不適格である。連言がその連言節に説明されることは出来事を用いてどのように表現できるのだろうか。

物体は説明の項には適さない。ダイヤモンドそれ自体はその硬さを説明しないし、ダイヤモンドそれ自体が高温高圧下の炭素によって説明されることもない。

ここで事実は真なる表象が表象する現実の状態であるとする。このように理解された事実は構造や材料を持つ。事実は具体的である必要はなく、かつ説明したりされたりできるので候補として生き残ることができる。

 

6.2 説明的な論理

基礎づけの説明的側面は特定の条件を満たす論理を課す。1.非反射性、何物も自分自身を基礎づけない。2.非対称性、基礎づけにおいても循環は許されない。3.推移性(カット規則)、基礎づけは連鎖する。4.根拠十分性、説明に始まりがなければならないのならば、すべての基礎づけられた事実は究極的には基礎づけられていない事実に基礎づけられなければならない。5.非単調性、基礎づけは基礎の追加に対して保存されない。

1-3は基礎づけの形式が事実の半順序を形成すること、4はその順序が最小の要素で終わることを帰結する。

基礎づけが問題になる理由、つまりそれが帰結とも、付随とも同一性や還元とも真にすることとも異なるということは、論理に目を向けることではっきりする。帰結は反射的であり、付随は非対称ではない。同一性は反射的で対称的である。真にすることは連鎖を形成しない。

これら基礎づけの論理に対しては様々な異論が存在する。

 

6.3 形而上学的な性格

基礎づけの形而上学的な側面は一定の条件を満たす形而上学的な性格を要求する。1.必然性、基礎が成り立つことはそれが基礎づけるものを必然化する。2.内性、必然的に、基礎と基礎づけられるものが両方得られたならば、基礎は基礎づけられるものを基礎づける。3.本質性、基礎づけが成り立つのなら、それは項の本質のおかげである。

存在の本質的な特徴は必然的であり内的である、といった一定の仮定の下ではこれらの性格はセットになる。

これらの特徴に関しても議論が存在する。

 

7. メタ基礎づけ

ここで基礎づけの事実を何が何を基礎づけるのかに関する事実であるとする。

戦争行動

「1940年にヨーロッパ人がいろいろなことをしたことが1940年にヨーロッパで戦争があることを基礎づける」

 

この種の事実に関しても、何が基礎づけの事実を基礎づけるのかというメタ疑問を発することができる。しかし、このメタ疑問はジレンマを発生させる。

最初の角は基礎づけの事実は基礎を持たないと答える。が、これは基礎づけの理想的な適用、つまりそれ自身について以外の事実によって基礎づけられた事実を基盤的な現実から追放する、というプロジェクトと摩擦を起こす。戦争が基盤的な現実でないためには、戦争についてのすべての事実が戦争についてではない事実によって基礎づけられることが必要になる。そして、それらの基礎づけの事実はそれ自体戦争についてのものであり、戦争についての関係項を持つ。このとき、基礎づけの事実は追放されるべきだろうが、それらは基礎づけられていないので追放できない。

二番目の角は基礎づけの事実が基礎づけられることを認める。問題はそれが無限後退を引き起こすかどうかである。基礎づけの事実が基礎づけられるのなら、基礎づけの事実が基礎づけられるという高階の基礎づけの事実は何に基礎づけられるのか。

二つのメジャーな戦略はどちらも二つ目の角をとる、つまり基礎づけの事実は基礎を持つ。二つが異なるのはその基礎が何であるかについてだ。

還元主義者は基礎づけの事実の基礎は基礎づけの事実に埋め込まれた基礎に還元されると論じる。ここでは戦争行動行動に基礎づけられる。

還元主義の難点は基礎づけの提供する説明の一般的な構図をあいまいにすることにある。「1917年にヨーロッパ人がいろいろなことをしたことが1917年にヨーロッパで戦争があることを基礎づける」という基礎づけの事実は前述の基礎づけの事実と共通した戦争行動の間の説明的な結びつきをもつ。しかし還元主義はこの共通性を説明できない。

接続主義はそのような説明的な結びつきが基礎づけの事実を基礎づける役に立つと主張する。そのような説明的な結びつきは本質と基礎の間の結びつきから生じる。例えば

接続的な事実

「戦争の本質の中に以下のようなことが含まれる。もし行動ならば戦争である。」

 

このような接続的な事実は戦争行動を基礎づける役に立つ。いろいろな行動がこの結びつきと一緒になることでそれらが戦争を基礎づけることを基礎づける。

接続的な事実の難点は、最初の角をとった際の問題が再び現れることだ。もし接続的な事実が基礎づけられないのならば、戦争は基盤的な現実から排除されない。ここで、接続的な事実が基礎づけられると述べようとするかもしれないが、悪質な後退を避けつつそれを基礎づけるのが何かについてははっきりしない。別の返答は接続的な事実を基礎を持たずそれを必要ともしない例外として扱う。もしくは無によって基礎づけられると考える。もちろん、これは例外的な接続的な事実と他のものの区別はよくないという反論を招く。

還元主義と接続主義はまだ網羅的に探求されているわけでも、もう片方の戦略をまじめに考慮しているわけでもない。

 

8. 懐疑的な挑戦

まだまだたくさんの話題が基礎づけにはある。基礎づけは哲学的疑問を形式化する際に重要な役割を果たし、ある研究者にとっての形而上学の中心問題を特徴づける助けになる。だが、使い慣れたモデルを避けることや「おかげで」形式に対してはっきりと意見を述べないスタイルなどから、基礎づけが形而上学と説明の間の大それたつながりを担うには不安定であるとみなされうる。こう考えると、基礎づけはホフウェバー(2009)が秘儀的な形而上学と呼ぶような、答えようとする問を理解するために形而上学的な用語を理解する必要のある形而上学の一種であるように見えてくる。

 外部の懐疑主義者は基礎づけが秘儀的であることを理由に基礎づけを拒絶する。が、それが受け入れられないほど秘儀的であるかどうかについても争いが存在する。

内部の懐疑主義者は秘儀的な形而上学がそれ自体問題であるとは考えないが、基礎づけ概念の意義を疑問視する。基礎づけは様々なきめの細かい依存関係のごった煮である、と主張したり、それらの依存関係が分離した後には基礎づけのための仕事は残っていない、と主張したりする。

しかし、この内部の懐疑を基礎づけの研究をやめる理由にする代わりに、基礎づけ概念と周辺概念を解きほぐすことを新たな目標にするという手もある。この作業は基礎づけがどのような特徴を備えているのか考慮することによって進められる。この場合、基礎づけに対する関心はどのようにその説明的/形而上学的特徴が基礎づけに特徴的な仕事内容に貢献するのかという疑問を強調することでより強化されうる。

さらに、この仕事内容は新しく有意義な基礎づけの適用を探求することで支持されうる。たとえば、ある存在が現実の究極的な説明から省くことができる、ということの特徴づけは、基礎づけを用いて定義できる。消去不可能な存在がほかの存在に依存するということはありうるため、これは基礎づけに特徴的な仕事である。さらに、依存関係が無限に続くような状況でも適用可能である。

Raven, Michael J. (2015). Ground. Philosophy Compass 10 (5):322-333.

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/phc3.12220

【SEP要約】Causation and Manipulability

因果性の操作主義的な説明についてのSEPエントリーを要約する。

Causation and Manipulability (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

著者はJames Woodward、記述は2016年版による。

 

1.Introduction

因果性には様々な定義の仕方がある。因果性の一つの側面は「結果を目的とするとき、原因はその有効な手段となる」という言葉でとらえられる。言い換えれば、CがEの原因であるのは、「Cを操作したら、Eも変化する」という関係が成り立っているときだ。この考え方を洗練させたものが操作主義と呼ばれる一群の理論である。主な論者はGasking,Collingwood、von Wright、Menzies and Price、Woodwardなど。類似したアイデアは「構造方程式」や「因果モデル」を扱った文献にもみられ、近年Judea Pearlの著作によって再び注目を集めている。

 

Hausmanは操作可能性について、①循環しており②人間中心主義であると批判した。操作するという言葉には変化を引き起こすという含意があり、人間に操作できる物事の範囲は限られているからだ。
①については、操作主義の内部でもさらに還元主義と非還元主義に分けられる。WrightやMenzies and Priceのような哲学者は還元的理論を志向し、統計学者など非哲学者は還元を期待せず、因果言明が何を意味するのかの解明、関連する概念との関係をもとに推論を理解することを目標とすることが多い。

 

続きを読む

Ehring, D(2011)."Tropes"/要約part.3

一章前半では例化関係に注目した3つの理論とアリストテレス主義的定式化を取り上げ、例化理論群が性質/個物の区別に陥ること、アリストテレス的定式化が反例に対応するため単純さを失うことを論じた。

今回はD. C. Williamsの類似性を用いた区別が最もふさわしいことを論じる。

続きを読む

Ehring, D(2011)."Tropes"/要約part.2

「適切な存在論にふさわしいのは普遍者ではなくトロープ」というのが第一部での主な主張だ。

第一章ではそのための下準備として普遍者と個別者を区別する作業を行う。個別的性質という特異的なトロープのあり方を許容する理論を探そう。

続きを読む

Ehring, D(2011)."Tropes"/要約part.1

このブログの最初の記事を、科学哲学者Douglus Ehringの2011年の著書の要約記事とする。

Douglus Ehringによる本書は、現代形而上学における「性質や物体は何であるか」という問にまつわる論争の一部をなすものである。性質は世界についての理解に欠かせないものであり、我々は性質が実際に世界に存在しているようにふるまっている。 だが実際のところは?

Ehringの中心的なアイデアは以下のように要約される。 

「性質は、持続的な抽象的個別者であるところのトロープが形成する自然なクラスによって説明され、具体的個物は、互いに共在するトロープの束に還元される。」 

 

今回の記事はイントロダクションであり、形而上学についての諸説の地図をつくる作業、そしてEhring自身の見解の表明だ。

 

続きを読む